2012/07/09

クラッシィハウス高輪

 クラッシィハウス高輪

白金高輪からは魚らん坂、泉岳寺からは伊皿子坂を登った先にある高台の住宅街、高松宮邸隣接の住宅街に立地する低層分譲賃貸マンション。
高輪の住宅街に住まうことにより良好な住環境を手に入れられることでしょう。
高輪の街に映える重厚感のある外観は凛としており風情すら感じさせてくれます。
上質で高品質なマテリアルで設えた落ち着きのある共用部、室内内装。近隣にはスーパーを始め、クリーニング店、コンビニ、商店街が有り買い物便利。居住者のホスピタリティを高めてくれるフロントサービス有。


交通  
都営三田線「白金高輪駅」 徒歩5分
都営浅草線「泉岳寺駅」 徒歩7分
所在地 港区高輪1丁目14−15
構造 RC
階建て 5階建
築年数 2007年8月
設備・条件
ペット相談 デザイナーズ 保証人不要 2人入居可 分譲タイプ 室内洗濯機置場 フローリング バルコニー 24時間換気システム エレベーター 照明器具付き ガスコンロ コンロ2口以上 食器洗い乾燥機 システムキッチン ディスポーザー バス・トイレ別 追い焚き機能 浴室乾燥機 温水洗浄便座 洗面台 エアコン 床暖房 ウォークインクローゼット シューズインクローゼット CSアンテナ BSアンテナ CATV 光ファイバー オートロック モニタ付インターホン 宅配ボックス 24時間セキュリティ 防犯カメラ 24時間有人管理 フロントサービス ごみ出し24時間OK コンシェルジュサービス 浄水器 グリル オーブン オートバス ディンプルキー ダブルロック

~クラッシィハウス高輪の立地コラム~

クラッシィハウス高輪は魚らん坂、伊皿子坂の頂き、さらに高松宮邸に隣接しているという好立地です。
魚らん坂、伊皿子坂、高松宮邸の概要、歴史をお伝えいたします。

魚籃坂
魚籃寺前から大信寺前に下る幅4間・長さ3丈3尺の坂を魚籃坂という。
浄土宗魚籃寺は元和3年(1617)開創の豊前中津円応寺(現大分県中津市)の寺中魚籃院に始まるという。
寛永7年(1630)当地に移転。本尊の魚籃観音は中津から移した像で、右手に魚の入った籃を持ち、左手に天衣を携える唐女の姿をする。

※出典 歴史の足跡

伊皿子坂
伊皿子という地名の由来には諸説がある。「更級日記」の「いいさらう」の語、当地に住み承応2年(1662)に没した明人伊皿子にちなむという説、
南方の如来寺にあった大仏から「おさらぎ」となったとする説、武蔵国に住んだ大仏陸奥守貞直の名字にちなむとする説などがある。
芝田町9丁目と車町の横町から伊皿子町を経て伊皿子台町へ上る坂を伊皿子坂という。長さ約一町余・幅3間。「江戸名所図会」には潮見坂の名で紹介されている。

※出典 歴史の足跡

高松宮邸
1913年(大正2年)7月6日創設。伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のなかでは、もっとも創設時期が古い。
ただ、有栖川宮の祭祀や資産を継承していることから、宮家としての伝統はさらに遡るとも言える。

歴史
「高松宮」の号は、有栖川宮の旧称であった。有栖川宮の最後の当主威仁親王が、嗣子栽仁王に先立たれたまま1913年に薨去したが、大正天皇の特旨により、
第3皇子宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承した。旧皇室典範では皇族の養子縁組が禁じられていたため、宣仁親王は有栖川宮そのものを相続するのではなく
新たな宮家を創設したうえで、有栖川宮の祭祀や土地などの資産、そして一部の旧臣を継承するという形がとられ、宮号には有栖川宮にゆかりの「高松宮」が与えられた。
宣仁親王は、徳川慶喜の孫娘であり、威仁親王の外孫でもある徳川喜久子と結婚したが、夫妻の間に子はなかった。
1987年(昭和62年)2月3日に宣仁親王、また2004年(平成16年)12月18日には妃喜久子がそれぞれ薨去し、断絶となった。

高松宮邸は始め、東京市麹町区三年町(現在の東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を引き継いだが、
昭和に入って同建物が外務大臣官邸に転用されることに伴い、港区高輪一丁目にあった高輪御殿に移転した。同地は江戸時代、
大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であり(大石良雄外十六人忠烈の跡を参照)、
大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともある。戦後、広大な敷地は宣仁親王の意によって縮小され、
払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪アパートなどが建てられた。また、残った敷地内にあった本館も、「光輪閣」として改装のうえ一般開放された。
光輪閣はかつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に迎え、結婚式場などとして貸し出された。またかつては夏になると、
宮邸の庭にあったプールも近隣の子供たちに開放されていた。

光輪閣を出た宣仁親王夫妻は、敷地内に小さな木造平屋の邸宅を建てて居住していたが、
光輪閣が老朽化によって1972年に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、2004年に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。
現在、宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。また、かつて払い下げられた土地の一部には高級マンションが建設され、
一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居している。この事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている。

また高松宮は、有栖川宮から翁島別邸(福島県耶麻郡翁島村他)・葉山別邸(神奈川県三浦郡葉山村)と麻布御用地(東京市麻布区麻布盛岡町他)を引き継いだが、
麻布御用地は間もなく東京市に払い下げられ、有栖川宮記念公園として整備された。翁島別邸も1952年に福島県に払い下げられ、現在は天鏡閣として公開されている。
葉山別邸のみ昭和後期まで継続して保有されたが、宣仁親王の薨去に伴う相続税支払いのため、喜久子によって金融機関へ売却された。跡地には
現在、神奈川県立近代美術館・葉山館が建設されている。他には、1933年に宮ノ下御用邸を取得して宮ノ下別邸として所有していた。
この別邸は1946年に富士屋ホテルへ譲渡、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。

※出典 Wikipedia